『物語化批判の哲学〈わたしの人生〉を遊びなおすために』を読みました。
著者は難波優輝さん、発売は2025年、講談社から。
内容/あらすじとか
清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。
だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。(Amazonより)
『物語化批判の哲学〈わたしの人生〉を遊びなおすために』の感想/レビュー
最近は何でもかんでも物語化しすぎではないか?
本書はそんな問いから始まります。たとえばCMは短い時間でストーリー仕立てになっているものが多く、就活では物語的に自分史を作り、語ることが求められます。そんな風に日常に物語が溶け込んでいるのは、物語の持つ影響力の強さゆえといえるでしょう。
しかし筆者はそんな物語が悪用されたり、自身や他者を強引に物語化することで生じる問題を取り上げて、安易な物語化を批判していきます。
前半は物語化のメカニズムと危険性について。後半からは物語化は自己や世界を理解するための方法の一つでしかないという考えのもと、ゲームやパズル、ギャンブル的な人生の解釈があることを説明します。そしてそれらすべてに交わりながら、深くは交わらない「おもちゃ遊び的な生き方」の可能性を示唆しています。
『物語化批判の哲学〈わたしの人生〉を遊びなおすために』のハイライト/印象に残った箇所
自分語りという物語化の危険性
私たちは、自分自身を語ることで互いを理解し合えると信じている。
しかし、自己語りは本当に自己理解に寄与するのだろうか。自己語りを聴くことで、他人の理解が進むのだろうか。私たちの語りは知らぬ間に過去を歪め、理解を妨げ、自己の虚飾を作り上げ、さらには他人への不当な解釈という暴力へと転じる危険を隠し持ってはいないだろうか(難波 2025:20-21)
自分の過去を語ることは、歴史を語ることに似ていると筆者は述べます。最も似ている点は、それが現代(今の自分)の価値観や関心で当時を解釈しようとする意味で、選択的であるということです。
そうなると人は、自分の過去にドラマチックな解釈や意味を見出し、欺瞞的に自己像を作り上げてしまいます。それは過去を語っているのでなく、こういう風に自分を理解したい・されたいという願望でしかないと言えるでしょう。自分が何者であるかをはっきりさせたいという欲求に対して、物語化は手軽で好都合なのです。
陰キャ、陽キャ、チー牛、パリピなど、自分にレッテルを貼ったりカテゴライズすることも、自己に同一性や一貫性を求めようとする心理の表れでないかと思いました。その危険性は、自分はこうだと決めつけることで、他の可能性や自由を狭めてしまうということ。同様に理解できない他者に対してレッテルを貼ったりランク分けすることも、相互理解の扉を閉ざしてしまう原因になりかねません。
すべては色んな要素が絡み合って出来ており、黒か白かで分けることはできない
自分も相手も固定化された存在ではない。オープンさ、不確定性への寛容さ、自分を過度に重要視しないこと、馬鹿げたことや冗談に身を投じる柔軟性。これがルゴネスの遊び心だ。
異なる価値観や規範の中で生きる相手に対して、相手の想定外の行動や発言を柔軟に受けとめ、自分も一時的に別の自己を遊んでみること。それは「演技」や「偽り」ではない。相手の「世界」に一度旅してみること(難波 2025:219-220)
この辺は直近で読んだ『現代思想入門』の、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの思想に近い気がしました。
おもちゃ遊びをするように世界を生きよう
物語的・ゲーム的な生き方、遊び方に没入することは難しくない。しかし、これらの生き方に入りこみすぎると、私たちの自己理解が歪められていく。自己語りは誤解を生み出し、ゲーム的スキルアップの発想は、世界の改善ではなく、ハックすることに人を専念させる。こうした主体は、物語的な自分、ゲーム的な自分に責任感を持つ倫理のなかを生きている(難波 2025:224)
物語的、ゲーム的な生き方に対して、筆者が紹介している「おもちゃ遊び的な生き方」とは、それらに接近して無邪気に遊びながらも、没入しすぎない態度を示します。ルールや秩序のなかで真面目に遊んでいる人たちからは怒りを買うことになりますが、そうした摩擦も受け入れながら遊ぶ軽やかさ、柔軟性が自己と世界の理解へとつながるのです。
理屈はわかるし魅力的な生き方。しかしその生き方を実践するため具体的にどうすればいいかは、難しいところです。下手をすれば「おもちゃ遊び的なスタンスで生きる自分」を真面目に演じることになりかねません。そうなりたいという憧れが先行して、秩序立てて柔軟性を得ようとすれば本末転倒です。
矛盾するようですが、「色んな異なる世界に飛び込んみる」、「白黒、善悪、正誤の判断は保留して対象を見る」みたいなルールを決めて、自分の殻を壊していくしかないのかなーと。もちろん色んな本を読むことも、おもちゃ遊び的マインドを育てるよい土壌になると思いました。






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