東洋哲学で自分で救うのはメチャクチャ難しいんじゃないかと思った話|『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』

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自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』を読みました。

著者はしんめいPさん、発売は2024年、サンクチュアリ出版から。

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内容/あらすじとか

著者のしんめいPさんは、東大卒の無職。

東大→大手IT企業→地方で教育事業→フリーランス→お笑い芸人
と、自分を探し続けた結果、虚無感から「無職」に。

引きこもって布団にいたときに「東洋哲学」出会い、
虚無感がぶっ飛ぶほどの衝撃をうけ、
そのときの心情を綴ったnoteが話題になり、
布団から脱出し、1000冊以上の東洋哲学にまつわる書物を読み、
書き下ろしたのが本書である。

(Amazonより)

『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』の感想/レビュー

まずカバー袖に書かれている筆者のプロフィールを見て、現代の『山月記』のような人だなと思いました。キング・オブ・エリートである東大卒の肩書を持ちながら、色んなことに挫折して無職の引きこもりになった筆者。同期が華々しく様々な分野で活躍している姿を横目に見ながら、人目をはばかり深夜に近所を徘徊する。これを現代の虎と呼ばずしてなんと呼びましょう。

その意味で本書は東洋哲学をわかりやすく紹介した本であると同時に、東洋哲学に救われた筆者のプライドやコンプレックスを包み隠さず明かした壮大な自己開示本になっています。

内容は東洋哲学関連の本を1000冊以上読んだ筆者が選んだ、7人の賢者の思想が紹介されています。

  1. ブッダ:無我むが(自分などない、身体も思考も感情さえも自然現象のようなもの)
  2. 龍樹:くう(すべては幻、人が作り出したフィクションでしかない)
  3. 老子:無為自然むいしぜん(ありのままでいい)
  4. 荘子:たお(すべては夢、この世界はチョウチョが見てる夢かもしれない)
  5. 達磨大師:不立文字ふりゅうもんじ(言葉はいらない、考えるな感じろ)
  6. 親鸞:他力本願たりきほんがん(ダメなやつほど救われる)
  7. 空海:大我たいが(すべてフィクションだから、人は何にでもなれる)

今っぽい喩えやネタを駆使して東洋思想を解説した本文は、ユーモアに富んでいて気軽にサクサク読めます。そして筆者がそれらの思想をどう解釈して救われていったのかにも説得力があります。

しかし読み手としては、内容は理解できるけどそれを自身の生活にどう活かせばよいか上手く繋げられない感覚になりました。

たとえば、すべてが空(フィクション)ですべてのものと人は繋がっていると理屈ではわかります。しかし自分の中に起こる様々な感情や直面する出来事を「これはフィクションだよね」と流すのは難しいわけです。プロスポーツ選手の動きを理屈で理解しても同じパフォーマンスができるようにはならないのと同じで、東洋思想の考え方や物事への向き合い方も、より深い理解と習熟が必要なのではないかと思ったのです。

そこで自分なりに次のステップ(行動)を考えたとき、瞑想が良さげなんじゃないかと思いました。瞑想というと雑念を消すとか、無になるみたいなイメージを持つ方が多いかもしれません。しかし実際はそうでなく、無限に湧いてくる雑念を観察してその状態を自覚するというマインドフルな体験を指します。

この状態は感情と自分を切り離して客観視する、つまり自分自身のことすら他人事のように傍から見ているようにしてしまう発想だと、自分は解釈しています。これは本書で説明されている無我や空の状態に近いのではないかと思ったわけです。

具体的には、たとえばマンガに虎が出てきても、実際の自分がパニックになったり恐ろしくなることはありません。瞑想で得られるマインドフルな視点とは、自分の身に起こる出来事や湧いてくる感情を「マンガで読んでいる」かのような、距離をおいた感覚にさせるものです。これを実践で使えるようにする訓練が瞑想です。

本書は笑い的な意味でも面白かったのと、内容がわかりやすかったのとで、読後は満足感がありました。ただ自分は欲望がすごいので「あーおもしろかったー」で済ませたくありません。美味しく食べてなおかつ栄養もしっかり取りたいタイプです。本書をより深い理解に落とし込んで、自身のお守りとして機能させるには、巻末に載せられた参考文献を読むなり、何かしらの訓練を積むなりして内容を真に理解する必要があると思いました。

ところで現代流行っている瞑想のやり方ってブッダ発なんでしょうか。改良されて今のやり方になったのか、わりと昔からこのやり方で行われたのか気になるところです。

『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』のハイライト/印象に残った箇所

「自分がない(無我)」ってどういうこと?

「自分」のからだは、食べもの、つまり「自分以外」のものからできているのだ。

もっと言えば、
「鳥」も、「鳥」以外のものでできている。虫とか食ってる。
「虫」も、「虫」以外のものでできている。草とか食ってる。
「草」も、「草」以外のものでできている。水とか太陽の光とか。

この世界は、全部つながりすぎている。
ちゃんと観察すると、「これが自分」といえるものが何もないことに気づくのだ。
「無我」である。

(中略)

「思考」さえ、自然現象のようなものである。
「思考」だけでなく「感情」もおなじである。

「よっしゃ!いまから嬉しい気持ちになるぞ!」
「よっしゃ!いまから怒った気持ちになるぞ!」
「よっしゃ!いまから悲しい気持ちになるぞ!」

こんなふうに感情をつくりだし続けている人がいたら、こわすぎる。
感情も「わきあがってきている」のだ。

(しんめいP 2024:38-42)

「言葉を捨てる」って何?

でも、禅にであって、かわった。

シンプルに、「言葉をすてる」。
これでいいのだ。
自分が「ダメ」とおもった瞬間、「あ、言葉の世界に入ってるな」と認識するだけで、ぜんぜん違う。

散歩でも、なんでもいいから、とにかく言葉の世界からはなれる。
「デキる」自分みたいな、別のフィクションはいらない。むしろ毒。
言葉をすてると、不思議とアイデアがわいて、なんとかなる。

(しんめいP 2024:222-223)

この方法はすごく瞑想的だと思いました。瞑想中は呼吸に集中してて「あ、いま別のこと考えてたな」と気づいて呼吸に意識を戻します。これを実生活のなかで感情に対して行うのはすごく難しいと思います。

自分の欲望を受け入れる

そもそも、ぼくにとって「東洋哲学の本をかく」って、めちゃくちゃ矛盾だった。
本をだすって、「承認」っていうフィクションど真ん中で、承認欲求のかたまりな感じ。
なのに、テーマが東洋哲学。
「承認欲求」から自由になる方法を、承認欲求に手足をしばられている自分が書くということに、かなりくるしんだ。何をかいてもウソっぽくなる(しんめいP 2024:222-223)

自分自身の感情(承認欲求)を観察して、「まあ、いいか」と開き直り書く。筆者はこの本を書く行為そのものが、自身に向き合う瞑想のようであったと述懐しています。

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