日本人の根っこは縄文にある|『〈森の思想〉が人類を救う――二十一世紀における日本文明の役割』感想・レビュー

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森の思想が人類を救う』を読みました。

著者は梅原猛さん、発売は1991年、小学館から。

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内容/あらすじとか

二十一世紀における日本文明の役割とは何か? 人間から動物や山川草木に至るまで、すべての生命は平等であり、必ず再生する。日本文明の基層にある「自然崇拝」を探求し、核戦争・環境破壊・精神の崩壊に直面する人類救済の道を探る。(Amazonより)

『〈森の思想〉が人類を救う――二十一世紀における日本文明の役割』の感想/レビュー

「森の思想」とは筆者が考える、日本人の根っこ部分にある信仰のこと。この思想が近代の課題である核戦争・環境破壊・精神の崩壊を解決する糸口になると主張した本。

神道が国家に整備される以前(8C頃)、仏教が日本に入ってくる以前(6C頃)、弥生人が稲作をもたらす以前(本書内ではBC3頃と記載)。その頃(縄文時代)の日本には、木や動物などを神と考えるアニミズム的な信仰がありました。

その名残が強く残っているとされるアイヌ、沖縄の宗教、そして神道と仏教が日本人向けにカスタマイズされていった変遷の歴史を辿ることで、筆者は日本人の根底にある思想を以下の二点に絞り込みます。

  • 山川草木、動物すべては平等な生命である《生命の崇拝》
  • すべての生命は死んでも再生する《生命の循環》

そこから言えるのは、人類が自然を支配し征服するという考え方から、自然との共存をはかる思想に転換するべきであるとうこと。30年以上前に書かれた本ですが、冒頭にあげた3つの課題は現代、より深刻な問題となっています。

『〈森の思想〉が人類を救う――二十一世紀における日本文明の役割』のハイライト/印象に残った箇所

日本人の宗教の基盤は縄文時代にある

縄文時代の狩猟採集文化の宗教のうえに農耕文化、渡来人の宗教がかさなっているのです。だからわれわれが、日本人の基層の宗教を知ろうと思えば、縄文時代の宗教を研究しなければならないのです。そうであれば縄文時代の人間の形質と文化を最も多く受け継いでいるのはだれか。それはアイヌの人たちであり沖縄の人たちである(梅原 1991:34)

仏教は日本人向けにカスタマイズされた

仏教が日本に定着するためには、祖先崇拝と死者供養の信仰を中心におかざるをえなかったのです。(中略)日本の土着宗教の思想――生きとし生けるものはすべて平等で共通の命であるということと、人間は死ぬと生まれ変わり、またこの世に帰ってくるという思想は、変わることなく日本仏教のなかにも生かされているのです。いい方をかえればそういう土着宗教が日本人の底に流れているから、特定の人だけが救われるという仏教は日本に定着しなかったのです(梅原 1991:104)

最澄(766年?ー822年)は人だけでなく、すべての生命が平等に救われると考えました「山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつ。時代を経て法然(1133年ー1212年)が、南無阿弥陀仏と唱えれば皆平等に救われるという簡便な教えを作りました。そして法然の弟子の親鸞は、死んであの世にいっても命はまた帰ってくる「還相廻向げんそうえこう」という循環的な思想が日本に定着しました。

宗教と道徳から解放された人間は欲望の権化となる

時代の大勢は、宗教の束縛から人間を解放するとともに、道徳の束縛からも人間を解放しようとする方向にすすみました。しかし、宗教からも道徳からも解放された人間はいったいいかなる人間になるのか。それは無限の欲望の満足をひたすら希求する人間です。(中略)そして、とくに若者の精神の崩壊ということが、資本主義のもっとも発達した先進工業国に起こっているのです(梅原 1991:156)

価値観も物質も娯楽も、何もかも多様化して自由な現代。自由は選択と言い換えることもできて、すごく難しくて責任の重いことではないかと怖くなることがあります。それは何に対しての責任か。自分の人生の時間に対する責任です。

時間は有限です。普段の生活でその意識は希薄です。何にどう時間を使うか、それが本当にやりたかったことなのか、それで満足なのか。もし後悔しても時間だけは取り戻すことができません。

コメント

  1. ヒフミヨは流れのままに数創る より:

     ≪…循環的な思想…≫で数の言葉ヒフミヨ(1234)からの自然数の眺めは、『コンコン物語』で・・・

     ≪…縄文時代…≫の数の言葉の風景は、

     【 「縄文カレンダー」   引用
    小林達雄氏のご冥福を祈るとともに、氏の著書『縄文文化が日本人の未来を拓く』から受けた示唆の深さに心を打たれました。その中で語られる、文明(技術的・物質的な所産)と文化(芸術的・宗教的な所産)が対極にあるという視点は、私自身の思考に静かな衝撃を与えてくれました。そして、その対極にある概念が、縄文時代から続く日本人の心の奥底に流れているのだと。
    特に心に響きましたのは、秋田県鹿角市の大湯ストーンサークルから出土した「数を表す土版」のお話です。そこに刻まれた円点は、単なる計算のための記号ではありませんでした。それは、目、口、胸、腹といった身体の部位に対応し、それらを合計することで1から9までの自然数を表しているというのです。これは、抽象的な数の概念が、私たちの身体性、つまり「生きていること」と深く結びついていたことを示唆しています。
    縄文人は、数を「記録」するための道具としてではなく、宇宙や自然の摂理を「表現」するための造形物として捉えていたのではないでしょうか。ストーンサークルが夏至の日没方向と一致しているという事実は、彼らの数の認識が、天体という巨大な自然のリズムや、共同体の祈りと分かちがたく結びついていたことを物語っています。
    物質的な利便性を追求する現代の「文明」とは対照的に、縄文人の「数」の感覚は、精神的な秩序と自然との調和を重んじる「文化」そのものでした。私たちが地上の富にとらわれ、心の平安を見失いがちなのは、数を文明の道具としてのみ扱い、本来の文化的側面を見過ごしてきたからかもしれません。
    この示唆を胸に、私たちは縄文人のように物質的な豊かさと精神的な豊かさを統合する道を、探していきたいものです。その道こそが、「朽ちない富」と呼ぶにふさわしい、本当の心の平安へと続いているように思えてなりません。

    返信 引用

    素晴らしいご感想をお寄せいただき、ありがとうございます。

    小林達雄先生のご著書から受け取られた「文明と文化の対極」という視点を、ここまで深くご自身の思考に響かせておられることに、私も強く共感いたしました。特に大湯ストーンサークルに関する「数を表す土版」の解釈を通して、抽象的な数が身体性や宇宙のリズムと結びついていたという洞察は、まさに縄文人の感覚世界を現代に呼び戻してくれるものだと思います。

    仰る通り、現代社会における数は利便性を支える「文明」の道具に偏りがちですが、縄文人にとっての数は自然や共同体とつながる「文化的な表現」であり、祈りや秩序の象徴でもありました。そうした感覚を現代に蘇らせることができれば、物質的豊かさと精神的豊かさを調和させる道が拓けるのかもしれません。

    「朽ちない富」というお言葉、とても印象的です。まさに心の平安と自然との共生を見据えた言葉として、私たちが未来に向かう上での道標になるのではないでしょうか。

    大切な気づきを共有してくださり、心より感謝申し上げます。 】

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