『歩くという哲学』を読みました。
著者はフレデリック・グロ、訳は矢口亜沙子さん、発売は2025年、山と渓谷社から。
内容/あらすじとか
世界中に影響を与え、世界を動かした思想家、哲学者、作家、詩人の思索の多くは、歩くことによって生まれてきました。
歩くことは、最もクリエイテブな行為なのです。
また素晴らしいアイデアを出す歩き方にも様々なものがあります。
歩くことは、単なる機械的な繰り返しの動作以上のものであり、自由の体験であり、緩慢さの練習であり、孤独と空想を味わい、宇宙空間に体を投じることでもあります。著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求します。
ソクラテス、プラトン、ニーチェ、ランボー、ボードレール、ルソー、ソロー、カント、ヘルダーリン、キルケゴール、ワーズワース、プルースト、ネルヴァル、ケルアック、マッカーシーらにとって、歩くことはスポーツではなく、趣味や娯楽でもなく、芸術であり、精神の鍛練、禁欲的な修行でした。
また、ガンジー、キング牧師をはじめ、世界を動かした思想家たちも歩くことがその知恵の源泉でした。歩くことから生まれた哲学、文学、詩の数々に触れてみましょう。
(Amazonより)
『歩くという哲学』の感想/レビュー
学術書というにはあまりに軽やかな読み心地。筆者と野辺を歩きながら、その思索の一端を垣間見ているような気分になれる哲学エッセイ集でした。
本書で挙げられる文学者や哲学者はみな、歩くことに取り憑かれています。散歩はスポーツでもなければ単なる気晴らしでもなく、各々の活動や創作、仕事のために必要なもの。むしろ歩かなければいけなかったのだと思えてきます。
ランボーやルソーの章は、「歩くこと」に着目して彼らの伝記をまるごと見たような、映画のような濃密さがありました。詩人ネルヴァルの章はひたすら描写が美しかったです。
『歩くという哲学』のハイライト/印象に残った箇所
スピード幻想とは、それで時間を稼げると思い込むところにある
スピードの幻想とは、それで時間を稼げると思い込むところにある。(中略)急いでいる時、時間はどんどん速くなる。時間が飛び去る、ということは、急いだその二時間のために、結局、一日の長さが短くなるということだ(矢口 2025:16)
歩いて過ごした一日は、もっと長い一日に感じられる。そういう日には、いつもより長く生きた思いがする。(中略)ゆっくりやる、ということは、時間に寄り添うことだ。一秒一秒が、粒となって感じられるほどに。一瞬一瞬が、露となって結ばれてゆく。小雨が石へと降りかかる時のように。時間がそんなふうにゆるやかに引き延ばされる時には、空間にも深さが宿る(矢口 2025:17)
歩くことで得られるのは、何者でもなくなることの自由である
つまり、わたしが言いたいのは、歩くことによって自分に出会おうとしているわけではないのだ、ということだ。長年の自己疎外から解放されて、自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。なにものかでありたいという気持ちや、名前や歴史を持ちたいと思う気持ちそのものから解放される。(中略)歩いている時に得られる自由は、誰でもなくあれることの自由だ(矢口 2025:41-42)
歩くことで永遠のなかへと入ってゆく
歩いている時には、何もしない。だが、歩くこと以外には何もしなくてよいので、存在することの純粋な感覚がよみがえってくる。子供時代を満たしていた、ただそこにあることの幸福。歩くことで、幼年時代に感じていた永遠の時の流れに、再び身をひたす。(矢口 2025:105)
丘のつらなりや、新芽の芽吹きにとって、我々はなにものでもない。立場も、地位も、自分がどんな人間かということすらも意味を失う。ただ石の尖り具合や、草の感触、風の快さだけを知覚する身体となる。歩く者の世界には、現在も未来もない。ただ朝がやってきて、夜がやってくる。その繰り返し。過去もなく、計画もない。歩きながら、ただ目をみはる。七月の夕べの光に浮かぶ石の青さ、正午のオリーヴの葉の銀色の輝き、茜色に染まる朝の峰々。自分の中には、永遠の子供がいる(矢口 2025:106)




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