私の好きな悪字|疎まれる字にこそ学びがある【感想/レビュー】

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粗雑・雑音の「雑」は嫌われるが、雑木林・雑貨屋・雑記帳には、なつかしい味がある。雑・懶・迷・忘・愚・落・老など歓迎されない漢字を著者は「悪字」と名付け、その価値を再発見する。漢字の一つ一つから織りなされる深い思索とともに、時代に流されないやわらかな生き方を指南するエッセイ集。『漢字の楽しみ方ー悪字の数々を弁護する』を改題。

辰濃和男(2002)『私の好きな悪字』カバー袖 岩波書店

私の好きな悪字』を読みました。

著者は辰濃和男さん、発売は2002年、岩波書店から。

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内容/あらすじとか

筆者は記者という職業柄、文中に「私」を出すことが少なかったそうです。

本書ではそんな「私」を解放して自分が好きな字について書くことで、それぞれの字を結ぶ体系が自分の拠り所になっていることに気づいたそうです。

現代が疎んじている悪字に学ぶことが必要。

それらの字は新しい生き方の指針となります。

『私の好きな悪字』の感想/レビュー

一つの文字について徹底的に思索を巡らせた本。

取り上げられているのは迷、傷、愚、闇、落など、一見いい印象を持たれないような字ばかりです。

そんな一字から多くの情報や知恵を引き出して弁護、さらには自らの生き方の指針に繋げていく滑らかな文章に脱帽しました。

 

自分の中の偏見や執着を壊して柔らかく考える。

混沌や迷い、挫折や落伍から創造する。

自然の中に隠れ座ることで安らぎを得る。

筆者の考える強さは硬さよりも柔らかさを大切にしており、その視点でみると取り上げられた字に繋がりが見えてきます。

『私の好きな悪字』のハイライト/付箋/印象に残った箇所

「迷」より

数学者の森毅さんがかつて「このごろの数学教育で、なにより憂慮されていることは、自分の解答が誤りとわかるとすぐに全部を消してしまう生徒がふえていることだ」と指摘していました。
人間修行で大切なのは、どこで迷い、誤ったかを見極める力を養うことです。間違った答えがでるまでの道筋を全部消してしまっては、どこで迷い、どこで間違ったのかを見極めることができない。それを見極める修行をしなければ成長はない。昨今の教育は迷う力をどんどんなくしている、という森さんの嘆きはもっともです(辰濃 2002:21)

迷う力をなくしていることを憂うのは、一見矛盾しているようで面白い考え方だと思いました。

迷うことは苦しみを伴うため、できれば避けたい、避けた方がいいと考えるのが人間心理だからです。

それではすぐに答えがわかるのはありがたいことでしょうか。

コスパタイパの効率主義が横行する現代では、迷うことは苦しいに加えて時間を浪費する無駄な行為の最たるに挙がります。

しかし、「迷」を経由しない知識や経験が身になるかは、甚だ怪しいところ。

「何でもかんでも効率を重視する」から「何を効率化させるか吟味する」への転換が必要だと思います。

 

また「迷う」に近い話として、個人的には失敗や敗北も非常に大切なことだと考えています。

「失敗・敗北にも学びがあるから」と言えば擦られた表現になってしまいますが、学び以前の段階として「失敗を恐れて挑戦/行動しなくなる」「敗北を恐れて勝負しなくなる」状態に陥った場合の損失が大きすぎると思うのがより大きな理由です。

「落」より

落葉帰根、という言葉があります。落ち葉が栄養分になって根に帰るさまをいい表しているわけですが、この落葉帰根は世の中の仕組みにもあてはまります。
古来、既成の道徳、規範から落ちる人びとが跡を絶ちません。落ちて新しい生き方を見つけようとする人は、ある意味では、こころのやわらかな人です。既成の生き方にとらわれないこころのやわらかな人びとがいるからこそ、社会は活力をもつことができるのでしょう(辰濃 2002:82)

「捨」より

こころのやわらかさと大自然を感ずる感度のようなものは、深い相関関係にある、というのが私の体験的独断です。
死ぬまでこころに重いお荷物を背負って行くよりも、生きているうちできるだけお荷物を少なくして身軽な日々を送ったほうがいい、などと考えたりします、捨てるとは執着を捨てることです。こだわりを断つといってもいい(辰濃 2002:142-143)

「崩」より

何十年と生きてくれば、心に歪んだ部分がでてきます。偏見がさらにどうしようもないほど凝り固まっている場合もあります。自分が「良識」だと思っていることの数々が実は頑迷固陋、ひとりよがりの判断ばかりだったということもあるでしょう。『卒業』の主人公のせりふじゃないが「グロテスク」な部分が肥大してくるのです。
そのグロテスクな部分を思い切って崩す。崩す以上、崩す対象に向かい合わねばなりません。自分の醜さを正視する勇気が必要になります。それはかなり難しい作業ではありますが、これを怠ってはいけない、と思うようになりました(辰濃 2002:160-161)

己のなかにある偏見やこだわり、執着を崩す。

己の醜さを正視する勇気を持つ。

絶えず「自分を壊せ」と説いた岡本太郎の言葉を思い出しました。

「駄」より

私は無駄な時間を持つことが好きな人間ですが、一方でなぜか、極度に無駄をはぶく効率主義にもひかれるところがあります。(中略)世の中のことでも同じです。無駄をはぶく風潮が主流であるならば、せめて、無駄を大切にする少数派があってもいい。無駄を大切にしたほうが、かえって無駄をはぶくことに役立つことがあるかもしれない。そういう心理的、生理的考察があってもいい。それに、すべての人が「無駄撲滅」の意気に燃えて、こころを一つにして走っている社会は恐ろしい。あべこべの考え方を容認する気風があったほうが懐の深い世の中になるし、暮らしやすいとは思いませんか(辰濃 2002:188-189)

ようはバランスの問題、中庸の考え方。

無駄礼賛と効率主義、両面持ち合わせながら両立させることが大切だと思います。

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