歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい目が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など歴史における主要な問題について明快に論じる。
E.H.カー(1962)『歴史とは何か』(清水幾多郎 訳)カバー袖 岩波書店
今回紹介するのは『歴史とは何か』。
著者はE.H.カー、1962年に清水幾多郎さんの翻訳で岩波書店より発売されました。
【どんな本?】
1961年にE・H・カーがケンブリッジ大学で行った講演「歴史とは何か」の書籍化。
歴史は事実の記録ではなく、背後にある思想や価値観まで含めて理解していくことが大切だと述べる。
【こんな人にオススメ】
・大学でより専門的に歴史を学ぶ人
・歴史を通して自分を成長させたい人
・客観的に物事を考える能力を高めたい人
E.H.カーの作品をAmazonで探す
E.H.カーの作品を楽天で探す
清水幾多郎の作品をAmazonで探す
清水幾多郎の作品を楽天で探す
『歴史とは何か』の内容を分かりやすく紹介
Ⅰ 歴史と事実
19世紀は事実を集めて「客観的な歴史」を作ろうとした時代でした。
しかし、それは歴史家の価値観で重要と判断した事実を集めた「主観の歴史」になっていることに気づかなければいけません。
つまり歴史は必然的に選択的なものなのです。
現代の価値観で過去を見るだけでなく、過去の事実の裏側にある思想や価値観まで見ることが大切。
その意味で歴史は「現在と過去との尽きぬ対話」と言えます。
Ⅱ 社会と個人
社会と個人は必ず相互関係にあります。
誰もが生まれた瞬間から、その時代の社会の影響を受けるからです。
そのため、人間性や国民性と呼ばれるものは、その時代の社会や教育で決まってきます。
もちろん、歴史家もその影響下にあります。
どれだけ客観に立っているつもりでも、現代の価値観で過去を見てしまうのです。
そして歴史上の偉人たちも、その時代の社会から独立して存在していたわけではありません。
彼らは歴史の外から突然現れたのではなく、あくまで歴史的過程の産物です。
「現在と過去との尽きぬ対話」とは個人(歴史家)対個人(偉人)ではなく、現在の社会と過去の社会との対話なのです。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
ヨーロッパでは「科学」は歴史の意味も含んでいますが、歴史は科学ではありません。
しかし、科学は「知識の色々な方法や技術を用いる」という意味で様々な分野を含むので、科学と歴史を完全に切り離すこともできないのです。
歴史と科学が異なる根拠として以下5つの意見がありますが、その全てが正しいわけではないことを説明しましょう。
①歴史は特殊的なものを扱うのに対して、科学は一般的なものを扱う
必ずしもそうとは限りません。
歴史家は特殊的な出来事を一般化しようとします。
例えばペロポネソス戦争と第二次世界大戦は異なる特殊な出来事ですが、同じ「戦争」と呼ばれます。
イギリス革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命もそれぞれ特殊的ですが、「革命」として一般化されます。
歴史家は特殊的なものの中に一般的なものを見出そうとするのです。
②歴史は何の教訓も与えない
一般化とはある出来事から得られた教訓を、他の出来事にも当てはめていく作業のこと。
歴史は無意識レベルで一般化されますし、一般化を通して歴史から学ぼうとします。
よって「歴史は何の教訓も与えない」というのは極端な意見です。
③歴史は予見することができない
歴史は科学と違って起こることを予想できない、本当にそうでしょうか。
例えばある学校で2、3人の感染症が出た場合、放っておけばそれが蔓延することは想像に難くありません。
歴史は経験の一般化を通じて未来を予見することができるのです。
ただ、特殊的なものには偶然が絡むので、誰が感染症にかかるかといった個別的な予想はできません。
④人が人を観察するのだから歴史は主観的になる
歴史家の行う観察に、その歴史家の見方が入り込んでしまうことは否定できません。
しかし、近年では物理学の世界でも、空間的距離や時間経過が観察者の状態に依存すると言われています。
つまり、観察者と観察対象の間には相互関係があり、それは変化し続けるものということです。
それまでの科学の理論では観察者と観察対象が明確に二分されてきましたが、現在では完全に分離するのは難しいという見方がされています。
⑤歴史は宗教や道徳の問題を含む
歴史家は起こった出来事を「神の仕業」にせず、問題を解かなければいけません。
加えて人でなく事件・制度・政策に対する道徳的判断をした方が有益であると言っておきましょう。
しかし、歴史の道徳的判断は非常に複雑な問題です。
ある結果の善悪を判断することによって、そこに成功した集団と失敗した集団という勝敗が生まれるからです。
Ⅳ 歴史における因果関係
歴史研究で大切なのは原因の徹底的な追及、「なぜ?」を問い続けることです。
一つの事件にいくつかの原因があったとして、それらを羅列しただけでは十分とは言えません。
一つ一つの関係を整理していくことで、「合理的な原因」と「偶然の原因」を区別するのです。
ある男性が飲酒運転をして、タバコを買いに来ていた男性を撥ねてしまうという事件がありました。
男性がタバコへの欲求で道路を横断したことがこの結果に繋がったのは事実です。
しかし、車に撥ねられた原因が「タバコが好きだったから」という説明は合理的ではありません。
それはあくまで偶然です。
実際には「運転手が飲酒していたから」が、彼が撥ねられた合理的な原因と言えるでしょう。
同じことは歴史の原因を探る時にも言えます。
歴史家は多数の原因の中から、歴史的に意味のある因果の連鎖を見つけ出す必要があります。
「歴史的に意味のある」の基準は、その歴史家の考えている合理的な説明および解釈の中に事実を当てはめる能力を指します。
そうして浮かび上がってくる「合理的な説明ができる原因」と「単なる偶然の原因」。
後者は何も得られないのに対して、前者は一般化することができ、そこから教訓を得ることができます。
Ⅴ 進歩としての歴史
人類は獲得した技術や経験が次世代に受け継がれていくという意味で進歩しています。
しかし、歴史には進歩の時代があれば、退歩の時代もあるのは明らかです。
ある文明が発展するために必要な努力が突然止まってしまったかと思えば、やがて別の場所に現れる。
そんな風にあるグループにとっては没落でも、別のグループにとっては進歩の始まりであったりするケースは多々あります。
歴史の進歩は、時間的にも空間的にも非連続的なものなのです。
そんな歴史の進歩に終わりはありません。
歴史は「現在と過去との対話」と言いましたが、「過去の出来事と次第に現れて来る未来の目的との対話」と呼んだ方がよかったかもしれません。
過去に対する解釈も、意味があると考えられる選択も、新しい目標(未来)に伴って進化していくからです。
例えば、立憲政治を目的としていた時代なら立憲政治の観点から、経済発展を目的としていたなら経済発展の観点から歴史は研究されます。
より客観に近い歴史家は、完全な客観は不可能だと自覚しながら、過去と未来を結び付ける視点を持っている人だと言えるのではないでしょうか。
Ⅵ 広がる地平線
近代以降の民衆の自己意識の発達はデカルトの影響が大きいです。
デカルトは、人間はただ考えるだけでなく、自分の考えについて考えることが出来る存在と述べました(=観察の主体であり客体でもある)。
またフロイトは、人々が意識的だと思っている行動に無意識があることを示したという点で歴史的に重要と言えます。
これにより、歴史家は自分を社会や歴史の外に立つ客観的存在と呼べなくなりました。
そして自己意識という理性の拡大は、今まで歴史の外にあったグループや民族、大陸が歴史の中に現れて来ることを意味します。
民衆の多くが社会的、政治的な意識を持つようになり、過去と未来を持つ歴史としての自分たちを自覚し出したのは、先進国でさえここ200年くらいのこと。
歴史家たちは西ヨーロッパの外にも広がりつつある「歴史の地平線」を考える必要が出てきました。
自国を世界史の中心として扱い、それ以外を「その周辺」として扱う歪んだ見方は変えていかなければいけません。
その際、変化を成功やチャンスでなく、恐怖として考えてしまうのは避けたい問題。
歴史にせよ、科学にせよ、社会にせよ、進歩は既存の制度を改良するだけでなく、基礎となる前提に根本から挑戦することを通して生まれるからです。
私は英語使用世界の歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に取り組む勇気を持つことを願っています。
『歴史とは何か』の感想
①歴史を知ろうとすることは自分を知ることに繋がる
本書で繰り返し述べられているのは、「誰しも自分が生きている時代の価値観で過去を見てしまう」ということです(=完全な客観にはなれない)。
その時代の価値観や自分が得た知識・経験などが合わさってできた思想は、「思い込み」と言い換えることもできます。
そして可能な限り客観に近づくためには、自分がどんな価値観のフィルター持っているか把握することから始める必要があります。
これは歴史学に限らず、何かを初めて体験する時や人付き合いの場面でも、広く一般化できる考え方だと思いました。
歴史以外の倫理、道徳、政治、経済などあらゆる面でその時代の影響を受けていると考えると、「思い込み」に縛られずに自由に思考できるようになりたいと思えてきます。
その狙いは、自分の中の「当たり前」や「普通」から外れている考えを、「変だ」「間違ってる」「よくない」と考えてしまうことを避ける為です。
これを避けるにはやはり、「彼我を知る」事が大切ではないでしょうか。
「普遍の尺度(価値観)を作ることは不可能で、価値観は人それぞれ異なる」という前提で、自分の中にある価値観を知って、相手が持っている価値観を知ろうとする。
色んな思考や価値のパターンを多く知ることで、許容や理解の幅は自然と広がっていくと思います。
②古典名著に共通している点があった
客観性を持つことの大切さと難しさを考える中で、別の本で似たことが書かれていたのを思い出しました。
一つ目は『ソクラテスの弁明』。
ソクラテスのように自分がはっきりと「知らない」という自覚を持つ場合にだけ、その知らない対象を「知ろう」とする動きが始まるからである。なんとなく「分かっているよ」と片付ける人は、本当には分かっておらず、自己認識がないままに、曖昧なまま進歩もなく、思い込みの中で人生を送っていく。また、不十分なまま「知らないよ」と開き直っている人にも、そこから知に向かう積極的な働きは起こらない。
プラトン(2012)『ソクラテスの弁明』(納富信留訳)p128 光文社
ソクラテスの弁明|わずか100ページに詰め込まれた一生使える普遍の哲学ソクラテスの生と死は、今でも強烈な個性をもって私たちに迫ってくる。 しかし、彼は特別な人間ではない。 ただ、真に人間であった。 彼が示したのは、「知を愛し求める」あり方、つまり哲学者であることが、人間として生きることだ、ということであった。...
二つめは『日本の思想』。
自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれてることになります。
丸山真男 (1961) 『日本の思想』p156 岩波書店
日本の思想|60年以上読み継がれてきた岩波新書の代表的名著現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意...
何かを知った気になるのも、すでに知っていると思うのも、客観性からは程遠い状態。
まずは自分を知ることから始めないと、対象を理解することはできないようです。
③変化を恐れずに思考を続けることが大切
時代の変化によって今まで通りが通用しなくなるかもしれないし、正しいと思われていたことが間違っていたと考えられるかもしれない。
そう思うと変化は怖いものですが、思考を続けることでしかその恐怖は拭えないと思います。
そして社会が変わることによって歴史の解釈が変わるという話は、読書体験にも似ていると思いました。
幼少期に読んだ本を大人になってから読むと、見え方が変わったり当時は気づけなかった良さに気づけたりしますよね。
本の内容は何も変わっていないけど、読者の変化によって見え方が変わってくる。
その意味で読書は、作者(の価値観)と読者(の価値観)の対話なのでしょう。
まとめ
『日本の思想』に続き、岩波新書の名著としてよく名前が挙がる『歴史とは何か』。
こちらも非常に難しく、読むのに時間が掛かりました。
・誰もがその時代の社会の影響を受けている
・過去の背景にある思想や価値観を知ることが大切
・時代の変化に応じて過去の解釈も変わってくる
こんな風に、書かれている内容は言われてみれば当たり前と思う事ばかり。
しかし、言われないとなかなか自覚できず、歴史研究をするうえでも避けて通れない大切な事だと感じました。
箇条書きした前提を踏まえての歴史研究は、まさに「現在と過去との尽きない対話」です。
感想の部分でも書きましたが、お互いの価値観を知って客観性に近づこうとするスタンスは、許容や理解の幅を広げてくれるという意味で大切だと思います。
そして、その広がりは進歩だけなく平和にも繋がる、といったら大袈裟でしょうか。
コメント