なんだかんだ神道って仏教と混ざりながら形成された宗教だよねって本を読んだ話|『神道とは何か 神と仏の日本史』

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神道とは何か 増補版 神と仏の日本史』を読みました。

著者は伊藤聡さん、発売は2025年(増補版)、中央公論社から。

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内容/あらすじとか

日本〈固有〉の民族宗教といわれる神道はどのように生まれ、その思想はいかに形成されたか。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈以前、日本は千年以上にわたる神仏習合の時代だった。両部・伊勢神道を生みだした中世を中心に、古代から近世にいたる過程を丹念にたどる。近代における再編以前の神をめぐるさまざまな信仰と、仏教などとの交流から浮かび上がる新しい神道の姿。補注と補論「神道と天皇」を収録した増補版。

伊藤聡(2025)『神道とは何か 増補版-神と仏の日本史』カバー袖 中央公論社

『神道とは何か 神と仏の日本史』の感想/レビュー

中世を中心に、古代から近世までの神道の形成史を辿った本。神道は決まった形があったわけではなく、渡来した仏教や中国などの思想と混ざり合いながら作られてきた「変容する宗教」であると位置づけられます。

  • 神身離脱説:8世紀頃に流行った考え方。衆生しゅじょう(仏教の救済対象である人間や動物などの総称)が住む世界を六道ろくどうといい、神もそこに分類された。ゆえに神も苦悩が多く、仏法に帰依して救済を求めているという解釈。この考え方は東アジアの国々にもあり、仏教受容の解釈のポピュラーな方法だった
  • 本地垂迹説ほんぢすいじゃくせつ:10世紀頃に流行りだした、仏・菩薩は人々の救済のために神の姿となって現れているという説。これも日本独自の考えではなく、仏教が伝播する過程で、その土地土地の神や偉人を仏菩薩の化身とすることで納得させてきた方法
  • 中世頃、日本人は神の末裔であり、国土に様々な神がいて守られている「神国」という考えと、空間的にも時間的にも仏法から疎外されている「粟散辺土ぞくさんへんど」「小国」という、相反する国土観があった(仏法が滅亡に向かっているという「末法思想」と相まってネガティブな気風が強かった)
  • 室町時代後期、「吉田神道」が生まれる。これは神道に儒教、仏教などの言説と儀礼の要素を取り入れた、教義、経典、祭祀をもった思想
  • 江戸時代、儒学の持つ日常性(父子、君臣、夫婦、兄弟、朋友)を大切にする倫理道徳感は、仏教の持つ出世間的、脱俗的な性格への批判となった。「仏教が日本をだめにした」
  • 仏教への批判的な機運が高まっていたタイミングで、明治政府の神仏分離令が重なり、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(寺院や仏像、経典の破壊)が過激化した

本書の内容は良くも悪くも教科書的。人名、経典、書物、思想の専門用語が飛び交うので、気を抜くと文字を追っているだけになってしまいます。神道の入門書として手に取りましたが、最低限の予備知識がない自分にとってはなかなかに難しい内容でした。

しかし神道が渡来の仏教の扱いに戸惑いながら、価値観を二転三転させたり、ときに卑屈になったり、優越感を示そうとしたりのドタバタで形成されていく歴史は、内容としては非常に面白いと思いました。

また神道に関する一般読者を想定した本で、なおかつ専門研究の成果を踏まえているものとして以下のものがおすすめされていました。こういう配慮はありがたいですm(_ _)m

『神道とは何か 神と仏の日本史』のハイライト/印象に残った箇所

設定に設定を重ねる歴史はどこか滑稽

中世の本地垂迹思想において、看過できない難問として存在したのが動物供儀(殺生祭神)である。神々に魚鳥などの動物を捧げることは多く見られることだが、本地垂迹的信仰において、不殺生戒との矛盾が問題化したのである(伊藤 2025:124)

これに対して、殺生を求めない神はその正体が仏(垂迹神)であり、殺生を求める神は神身離脱できていない(仏の姿である本地を持たない)神であると定義しました。

しかし、さらなる問題として本地を持った(と設定されていた)神の多くが、殺生を求める神だったという矛盾が生まれてしまいます。これに対して、「その神は肉を食するように見えるが実際には食べていない。仏菩薩は命が尽きる生物を見極めて、仏法と縁を結ばせるために供物として備えさせているのだ」と説明しました。アホかい。

仏と神のパワーバランスは時代によって変化し続けた

近世になると、多くの仏教批判(排仏論)が行われ、それに対する仏教側の反論も含め、ひとつの思想史的ジャンルを形成する。このような事態は中世までは見られなかったものである。それを担ったのが、儒者や神道者といった、事実上中世には存在しなかった宗教者であるのだから、起こるべくして起こったといってしまえばそれまででもあろう(伊藤 2025:264-265)

善でもあり悪でもある、日本の神様のおもしろさ|『神道の逆襲』感想
『神道の逆襲』を読みました。 著者は菅野覚明かんのかくみょうさん、発売は2001年、講談社から。

神道は仏教との関わり合いの中で形成された信仰

現代の神道の信仰の姿が、一見素朴に見えたとしても、それは古代のプリミティブな自然崇拝の残存ではない。それは、中世・近世・近代における神道の形成・展開過程において、再解釈・再布置された結果として装われた素朴さであり「古代」なのである。なぜなら、仮構された<固有>性への志向こそが、神道の基本的性格なのだから(伊藤 2025:284)

神道は縄文時代の自然崇拝でもなければ、古くから受け継がれてきた考えでもなく、仏教や中国の神とのパワーゲームを経て練り上げられてきた、変化の産物ということ。「仮構された固有性への志向」とは、仏教からの自立、「神道は日本で昔から続いている固有の信仰です」と主張したい性質のことでしょう。

 

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