『知の体力』を読みました。
著者は細胞生物学者で歌人の永田和宏さん、発売は2018年、新潮社から。
内容/あらすじとか
「答えは必ずある」などと思ってはいけない。“勉強”で染みついた呪縛を解くことが、「知の体力」に目覚める第一歩になる。「質問からすべては始まる」「孤独になる時間を持て」「自分で自分を評価しない」「言葉にできないことの大切さとは」――。細胞生物学者にして日本を代表する歌人でもある著者が、これから学ぶ人、一生学び続けたい人たちにやさしく語りかける。自力で生きぬくための本物の「知」の鍛錬法。
永田和宏(2018)『知の体力』カバー袖 新潮社
『知の体力』の感想/レビュー
「知の体力」とは何か?本書では以下のように説明しています。
- 想定外の問題に自分で対処するために必要な体力のこと(P47)
- 蓄えた知識を状況に応じて組み換え、自分の知恵として再構成する力(P144)
つまり「知の体力」とは『「問いがあって答えがない」状態に耐える知性、自分なりの答えを見つけようとする意志の力』(P20)のこと。
答えのない問題だらけの社会で生きていくには、自分なりの答えを探そうとする姿勢が大切。その姿勢(=知の体力)を身につけることが大学生活である、というのが本書の要旨です。
小中高と答えのある問題を学び、受動的に授業を受けていた状態から、「知の体力」をつけて自立しましょうという主張は、『思考の整理学』で外山滋比古さんが書いていることと同じ(先生に引っ張ってもらうグライダー人間から、自分で飛ぶことができる飛行機型人間になれ)。時代が変わっても大切なことは変わらず、「自分の頭で考えましょう」は人が持つ普遍的な課題であるといえそうです。
ただ答えのない問題について考え続ける宙ぶらりん状態は苦しいもの。意識していなければ楽な方(思考停止)へ流れていくのが人間だし、自分は受動的ではないと思い込んでいればなおのこと厄介。簡単にはできないからこそ、時代を経ても繰り返し言われ続けていることなのでしょう。
しかし、「知の体力」にはそんな苦労をしてでも鍛えるメリットがあると思います。なぜならその力は人生で直面する様々な問題に対処するだけでなく、自分自身を無意識に苦しめている思い込みや偏見、刷り込みのような価値観から自由になるためにも役立つからです。何かを学ぶことは、自分が知らない価値観、考え方、答え、知識などを知って、自分自身に反映させていくこと。
答えのない問題を問い続ける姿勢が「知の体力」なら、読書や勉強、他者との交流などで蓄えられる知識や価値観はさしずめ「知の筋力」でしょうか。変化し成長し続けるためには、学ぶこと、考えることを止めてはいけないと思いました。
『知の体力』のハイライト/印象に残った箇所
自分を知ることで本物の情熱が生まれる
「何も知らない自分」を知らないで、ただ日常を普通に生きていることに満足、充足しているところからは、敢えてしんどい作業を伴う学問、研究などへの興味もモチベーションも生まれないのは当然である。(永田 2018:56)
始めつつ学ぶ>学んでから始める
研究というものは、あるいはもう少し広く学問というものは、自分がしっかり先人の〈知〉を身につけてから行うものだと思っているフシがある。(中略)必要な知識を得てから研究生活に入ろうと思っていたら、いつまで経っても研究は始められない。必要な知識というものは、現場で必要になったときに、調べて仕入れるのがもっとも身につくもので、ただ漠然と机に向かって講義を聞いているだけでは、実践の場におけるほんとうに必要な知識は自分のものにならないと言い続けてきた(永田 2018:87)
漫画『ベルセルク』のガッツとイシドロが同じやり取りをしてました。それから『バガボンド』でも武蔵の道程は概ね始めつつ学ぶ武者修行であったように思います。この項を読んでいるときに浮かんだ例がこれら漫画作品でした。
成長には挫折が必要、依存から脱却して自立せよ
みんなの中にいて、みんなと同じことをしているのが楽しくてしようがない。これはなんら責められるべきことではなく、めでたいことには違いないが、集団のなかで己の存在を自らも、周りからも全肯定されるといった状況からは、思想にせよ、表現にせよ、あるいはスポーツなどの己をぎりぎりまで追い詰めなければ開花しない才能にせよ、そのような一言でいえば個性というものは生まれ得ないような気がする。
集団のなかに居ることの居心地の悪さ、周りとの折り合いのつけにくさ、自らの抱え込んでしまった本質的な寂しさ、孤独感、そのような、〈世界〉との葛藤のなかにしか、個性の芽は育たないものだ。「自らの可能性」に気づくことの大切さを何度も言っているが、その可能性は〈他〉と異なる自分、「らしくない」自分に気づくところからしか糸口を見いだすことはむずかしい。(永田 2018:137)
世界に居場所を感じられないことは不幸でも何でもない。逆境(と思えるようなとき)にこそ成長のチャンスあり。
自己評価や他人の視線に振り回されるな
評価というものは、それが良ければ自信をもってさらに励み、悪ければ、それを分析して克服できるように対策を練る、そういう使われ方をした場合にのみ意味を持つ。ところが評価そのものが自己目的化してしまい、評価を生かすのではなく、それに縛られてしまうという場合のほうが圧倒的に多いのが現実である。まして、その現在の評価が将来の自分を決定づけてしまうような、評価への依存は本末転倒、まったく意味を持たないものなのだと、まず自覚をしてほしいものだと思う。(永田 2018:163-164)
承認欲求の怪物にならないために。
流されずに自分で考える癖をつける、失敗はしてもいい、考える挑戦するスタンスが大事
自らが考えて最善手を模索するというところに意味があるのである。最善手を得られるかどうかが重要ではなく、それを自分で模索するというところに意味があるのだ。
多くは失敗するだろう。何しろ模範解答などはなく、正解もあるのかどうかわからない。(中略)その数限りなく繰り返される失敗のなかにこそ、将来、自らの力で「知」を有効利用できる戦略が隠されているのである(永田 2018:144-145)
みんなが正しいと言いはじめたら、一回はそれを疑ってみること。一度だけでいいから左を見てみること。たいていは自分の考えや判断が間違っていることのほうが多い。それでいいのである。とりあえず習慣として、一度はみんなが向うとしている方向とは反対を見てみる、それが習慣、習性となるまで、意識しておきたい。(永田 2018:184-185)
この辺の話は瀧本哲史さんの『武器としての決断思考』と主張がかなり似ています。そちらでは人生における様々な場面で最善手に近づくためのより具体的な方法が紹介されているので、合わせて読むことをオススメします。
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