『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読みました。
著者は三宅香帆さん、発売は2024年、集英社から。
内容/あらすじとか
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。
「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。
自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。
そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?
すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作。三宅香帆(2024)『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』カバー袖 集英社
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の感想/レビュー
よく売れているらしい話題の本。タイトルから多くの共感を集めそうです。自分もその口。
内容はまず「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題を提起。日本人の読書と労働の歴史を追いながらその理由を探り、働きながら本を読めるようなライフスタイルを提案しています。
現代の労働環境や自由(=すべてが自己責任)という価値観により、人は自分がコントロールできないこと、自分と関係のない情報(ノイズ)を受け入れる余裕がなくなっている。それがノイズありきの体験である読書が遠ざけられる原因であると筆者は推察しています。
本を読めなくなるのは時間の余裕だけでなく、心の余裕もないからだ、ということ。個人的には心の余裕がなくなっている以外にも、SNSやゲームなどで快楽が手軽に得られ、なおかつそれらに中毒性があるという点にも秘密がありそうな気がしています。
SNS、ゲーム以外も然り。娯楽の多様化は企業にとって、「利用者の時間(+お金)」の奪い合いの激化を意味します。それらをどうすれば独占できるかを、企業はあの手この手で考え出しているのだから、読書が隅に追いやられていくのも無理のないことかもしれません。
著者が提案している、仕事だけでなく私生活や余暇も大切にする「半身」スタイルの社会が実現したとして、人々はSNSや動画、ゲームといった快楽に折り合いをつけられるのか、本が読めるようになるのかは興味深いところ。なぜならそれらは人の快楽をハックしていると思うからです。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のハイライト/印象に残った箇所
自己啓発本と現代は相性がいい
社会は、変えられない。たとえば政治や戦争の悪いニュースは自分の手ではどうにもできず、搾取してこようとする他者はいなくならず、あるいは劣悪な労働環境を変えることもできない。だからこそ社会を「関連のない」「忌まわしい」ものだとして捨て置いて、帰宅後の部屋ーつまり自己の私的空間のみを浄化しようとする。それこそが「片付け本」のロジックなのである。
そしてそれは、自己啓発書というジャンル全体に言えることである(三宅 2024:180)
現代、本の売上は下がり続けているけど、自己啓発のジャンルは好調という状況についての考察。自己啓発書はノイズ(そのテーマに関係のない情報)を排除して、コントロール可能な自分の行動変化を促します。容易に変えられない環境、市場への適合を求める社会と、相性のいいロジックです。
同様に自分の興味関心に合った情報がカスタマイズされて提供されるインターネットも、ノイズが排除された情報媒体といえます。
私たちは「何を知りたいのか」を知らない
教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである(三宅 2024:226)
本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。
だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
自分から遠く離れた文脈に触れることーそれが読書なのである(三宅 2024:233-234)
かっこいいと思った部分。『答えは本の中に隠れている』に書かれている「人間の頭の中には先に言葉があってから考えが生まれるかもしれない」という話と少し繋がりがあります。
実際に自分のなかで上手く言葉にできないけど感覚として思っていることがあったり、意識上にはなかったけど他者の言葉や表現がしっくり来て「それだ!」と気付かされることがあります。自分のなかに欲望や嗜好として存在していても、言語化できなくてはっきりしていなかったり、認知できなくてそれに気づいていないことは珍しいことではありません。
その意味で、本を読むことは他者の文脈(価値観)を取り入れると同時に、言葉(思考の種)を増やすという部分でも自分を豊かにしてくれる行為だといえます。
読書によって開かれる多様な価値観と、増えていく言葉のパターンによって、自分自身知らなかった自分のことも知れるようになる。それが読書の楽しみであり醍醐味でもあります。
「仕事に全身全霊」ではなく、半身をプライベートに残す社会に
疲れたら、休むために。元気が出たら、もう一度歩き出すために。他人のケアをできる余裕を、残しておくために。仕事以外の、自分自身の人生をちゃんと考えられるように。他人の言葉を、読む余裕を持てるように。私たちはいつだって半身を残しておくべきではないだろうか(三宅 2024:264)
たぶんかなり多くの人が「できるもんならそうしてえよ!」と返す意見。「週休2日、1日8時間労働」は会社員の労働の最低基準。驚くべきは最低ラインでこれということです。これが普通だし、なんなら8時間で済むならかなり恵まれてる方、というのが現代社会の当たり前です。
しかし最低限の労働時間でも、人によっては限界を超えており、どうしてもそのスタイルが合わないという人もいると思います。逆にそれくらいの労働環境になんの不満も抱えておらず、充実した日々を送っていると感じている人もいるでしょう。
大事なのは仕事に不満を感じていようがいまいが、「仕事に全身全霊」「仕事が生活のすべてを占める」という状況に対して一度足をとめて考えることの必要性が問われていることです。
物事の前提やルールを疑えるのは、その是非はさておき、それ自体が大切な視点。前提やルールの中でやりがいや結果を得られる優秀な人ほど、持ちにくい視点ではないでしょうか。
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