善でもあり悪でもある、日本の神様のおもしろさ|『神道の逆襲』感想

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神道の逆襲』を読みました。

著者は菅野覚明かんのかくみょうさん、発売は2001年、講談社から。

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内容/あらすじとか

日本の神さまというと、どうもよくわからないというのが、今日の日本人の大方の反応ではなかろうか。
これがさらに、神道となるともっと冷たい反応が返ってくるだろう。
日本には哲学がない、とはよく言われる悪口であるが、
どうもこの悪口は、半分くらいは神道に向けていわれているようだ。
本書は、このような冷たい理解に対するささやかな異議申し立てを意図して書かれた。
題名の「逆襲」とはそういう意味である。
確かにわが国では、カントやヘーゲルのような
理論的・体系的哲学は生まれてこなかった。
わが日本いにしえより今に至るまで哲学無し」(中江兆民『一年有半』)という指摘は
ある面で当たっている。しかし、日本に哲学がなかったということは、
決して日本人が人生の一大事についての真剣な思索を欠いていたことを意味するのではない。

菅野覚明(2001)『神道の逆襲』カバー袖 講談社

『神道の逆襲』の感想/レビュー

日本の神道史を追いながら、日本人が目に見えない範囲のことをどのように解釈してきたのかを解説した本。

伊勢神道から吉田神道、垂加神道と、時勢や外来思想の影響を受けながら解釈を逆張り二転三転させてきた神道の歴史は、前に読んだ本と同じ。

日本の神様には善なる側面も悪なる側面もあるという多様性の面白さ、そんな神を正しく祀ることの大切さ。その影響が見てとれる昔話を取り上げて考察している章が面白かったです。

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『神道とは何か 増補版 神と仏の日本史』を読みました。 著者は伊藤聡さん、発売は2025年(増補版)、中央公論社から。

『神道の逆襲』のハイライト/印象に残った箇所

神は善人ではない

神であるということを直ちに神聖なもの、優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつくすしくあやしい、底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。繰り返しいうように、日本の神は、真にして善なる超越者などという単純なものでは決してない。神は、のどかな田園風景と集中豪雨で泥につかった田畑とが、あるいは愛らしい飼い猫と敵の喉笛に喰いつく化生の猫とが、同じでありつつ異なるという連続と断絶のうちに、いわば景色の反転それ自体としてあらわれている何ものかである(菅野 2001:79-80)

仏教と儒教の影響を受けて、道徳的な方向へ解釈が進んでいた神道ですが(伊勢神道→吉田神道→垂加神道)、近世に入ってそれらを取り除いて、日本人固有の心を探ろうとする人たちが現れました。

国学者の本居宣長は「人であれ動植物であれ、自然現象であれ、それが我々にとって可畏かしこき物、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして現われれば、それが神である」と定義しました。

国学の特徴的な思想の一つに「漢意からごころ批判」があります。たとえば「曇りなき心」や「不動心」といった仏教儒教が目指す境地は自然でなく、いってしまえば上辺だけの作為的な心境です(理論の正しさと、それを実践できているかは連動しない)。

それに対して国学では、いにしえの万葉歌人のような、正邪問わずに内面を包み隠さずに表現することが、人の普遍的な本性=「高くなおき心」であると説きます(by賀茂真淵)。

 

日本の神の解釈においても、神は必ずしも善であるわけではなく、道徳的な教えを説いているわけでも、死後の安寧を約束してくれるわけでもないと説明されます。善でも悪でも思うことを表現して、それを受け止めつつ、許容し、ときに武をもって制することもあるのです。

いうなれば自然との付き合い方のようだと思いました。この包容力の高さが仏教や儒教、キリスト教が芯まで根付くことを拒み、それでいてまあまあ日常に溶け込んでいる現代の状況を作っているとするなら、これは近世以降の神道の影響(逆襲)と考えてもよさそうです。

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昔話の神道的解釈(昔話は道徳話ではない)

善人が栄え、悪人が滅ぶという勧善懲悪パターンは、むしろ伝承文学を編集した知識人の道徳的な解釈や加工の産物であるといったほうがよい(菅野 2001:92)

昔話の定番として、やさしい老人が幸福になり、いじわるな老人は不幸になるという結末があります。実はこの型は、昔話を編集した近世近代の道徳主義的な知識人による改変だと筆者は述べます。

「何ゆえある家ある一人の単純な親爺だけが、異常なる童児または稀有の財宝を得て、たちまち長者になることができ、他の者はすべて失敗してしまったのか」ということに関する、昔話に共通の一つの約束事である。いいかえればこれは、栄える者が誰かを決める昔話内部の決まり事であるといえる。そしてこの掟は、近世・近代の道徳主義的知識人たちの期待に反して、必ずしも忠義や孝行といった道徳的善を要求はしないのである(菅野 2001:93)

それでは元来、神とも呼べるような不思議な存在からの恩恵を受けられる「選ばれし者」とは、どんな人なのでしょうか。

民俗学者の柳田國男は、神に愛される条件を「馬鹿正直」であることと述べています。突如現れた不可解を受け入れて、何かを要求されれば黙ってその通りにする。飼い犬が「ここ掘れ」と言えば掘り、亀に「背中に乗れ」と言われれば乗る。深夜にいきなり訪ねてきて「嫁にしろ」という女を嫁にして、覗くなと言われれば覗かない。そんなある意味で無分別と言えるほどの馬鹿正直さが神の恩恵を得る者の条件だというのです。そしてこのような条件を、神の禁忌を守り、忠実に斎祀を執行する心意と結びつけています。

つまり道徳的な解釈が入るまえの昔話が伝えようとすることは、一見馬鹿に思えるような無意味なことでも、律儀に守ってそれを続けられるような、とにかく型を守って神様を祀ることの大切さだと解釈することができます。

まさに「正直の頭に神宿る」の考え方です。ここで注意したいのは「正直」といっても、善行や努力といった道徳的な正直だけを指すわけではありません。神はいつも突然現れて、祀る場所や祀り方などを細かく指定してきます。それに対して懐疑を持たず、言われるがままに実行できる正直さのことです。これは面白い話だと思いました。

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「遊び」は神的なものとの交流を深める重要な要素

一般に斎祀の場が、一から十まで「戦々兢々」たる緊張だけで覆われているわけではない。神とともにある時間は、緊張や不安とともに、一種の非日常的な興奮や期待に彩られた時間でもあったはずである。神の斎祀は、不思議な陶酔としての「遊び」でもあったのである(菅野 2001:197-198)

東西を問わず、「歌」と「踊り」は宗教と密接に結びついています。現代でも大小規模を問わず、神社で行われている祭事に行ってみると、厳かな緊張感と不思議な非日常感に興奮を覚えます。そのため、神を祀ることへの「遊び」の重要性は、実感として多分に共感できるところがあります。

歌舞音曲の「遊び」は、清浄・正直と同様、神的なものとの交流を成就させる重要な要件となっている。というより、思わず体が動いてしまう子どものように無邪気な興奮自体が、正直ということそのものなのかもしれないのである(菅野 2001:198)

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