日本の思想|60年以上読み継がれてきた岩波新書の代表的名著

日本の思想岩波新書
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現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。

丸山真男 (1961) 『日本の思想』カバー袖 岩波書店

今回紹介するのは『日本の思想』。

著者は丸山真男さん、1961年に岩波書店より発売されました。

【どんな本?】
日本に伝統的な思想がないことを指摘しつつ、なぜそうなったのか、それでどんな問題が生じるのかを論じる。

【こんな人にオススメ】
・自分の頭で考え判断できるようになりたい人
・自分は思い込みや偏見は持っていないと思っている人
・近代以降の日本の思想がどのように作られたかを知りたい人

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『日本の思想』のあらすじ、内容をわかりやすく

Ⅰ 日本の思想

日本には思想的伝統が形成されてきませんでした。

儒教、仏教、神道に加えてヨーロッパ思想が根付いているので、思想が雑居的なのです。

 

違った文化や思想に触れる時、それが自分たちと異なるものとして対面する心構えの希薄さ。

それはいい意味で物分かりの良さと言えますが、安易な伝統の結合が「かえって何も伝統化しない」ことに繋がっています。

神道の無限包容性と思想の雑居性が、日本の思想的伝統に集約されているのです。

 

だからといって日本が今から西欧的に純粋化を目指すよりは、雑種性の良さを引き出した方がよいのかもしれません。

そして「雑居」を「雑種」にするためには、強靭な自己コントロール能力と主体性を持つことが大切です。

Ⅱ 近代日本の思想と文学ー一つのケース・スタディとしてー

批評家の小林秀雄は、日本で短編小説が幅を利かせているのは思想性の欠如ゆえと指摘しました。

当時、「文学は政治に比べて発展が遅れている」と考えられていたのです。

しかし、第一次世界大戦後に社会運動やマルクス主義が入ることで、文学は論理的構造を持った思想を扱うようになります。

プロレタリア文学(虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いた文学)後期の文学者たちにとって、マルクス主義は初めての「合理主義」「科学的方法」「実践的論理」だったのです。

 

昭和12年、当時の哲学、自然科学、社会科学、文学の代表者を集めて「文学主義と科学主義」という座談会が開かれました。

政治・科学・文学はそれぞれが違っていることを前提として、根底に「知性の自由と普遍性」があることを見失っていました。

その中で哲学者の三木清は、知性は仮説的に動くという意味で、知性と空想は相反するものではないと述べています。

この座談会が掲載された『文学界』に、H・G・ウェルズの「知性の世界的な協力」を仰いだ文章が訳載されていたのは皮肉な話です。

彼は知性の個性的相違を抹殺するのでなく、むしろそれを確認しながら、相違を組合わせて行くことで包括的世界概念を樹立しようというのである(丸山 1961: 122)

Ⅲ 思想のあり方について

現代は環境が多様化して、予測で判断・行動せざるを得ないシーンが増えてきています。

そんな予測頼りの生活と現実の間には、大きなギャップが生まれます。

イメージと現実の間の壁を厚くしている原因を、文化と学問の点から探ってみましょう。

 

日本の文化・学問は分野ごとに独立している、いわゆる「タコツボ型」です。

これは19世紀に共通の基盤から専門化・細分化が進んだ「ササラ型」のヨーロッパの学問を、細分化した状態でいきなり受け入れたことが原因であると考えられます。

例えば、社会学者と自然科学者の間に連帯感や交流はなく、閉鎖的な集団化が進んでいることが分かります。

組織や団体は閉鎖的になると、内部の考え方やイメージが外部とずれていることに気づけなくなります。

これが文学と科学ともなれば、その壁はより厚く立ちふさがります。

 

独立・閉鎖に進みがちな「タコツボ型」気質を打破するためには、自主的にコミュニケーションを広げる必要があります。

そして、多様なイメージを素材にして、客観的に論理やアイディアを作る方法を学ぶことが大切です。

Ⅳ 「である」ことと「する」こと

人からお金を借りて返さない人間が「時効」になった時、お金を貸した親切者がバカを見ることになります。

これは法の欠陥に思えますが、憲法には「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と明記されていることを忘れてはいけません。

お金を貸した人間には請求する権利があった。

知らなかった、行動を怠った、どちらにせよ権利の上に胡坐をかいている者は法の保護に値しないというわけです。

 

これは民主主義についても、まったく同じことが言えます。

なぜなら民主主義は、制度の働きを国民が監視・批判することによって初めて機能するからです。

その意味で民主主義は定義や結論よりも、プロセスを重視する考え方だと言えます。

 

日本で民主主義や人道主義が権力を装飾する建前になっているのは、「である」論理の考え方があるからだと考えられます。

「である」論理とは静的な状態

例えば、身分制度・部落の掟・家柄など、行動では変えられない先天的に通用していた権威などが挙げられます。

 

対して合理的に機能と効用を検証していく姿勢が、動的状態の「する」論理です。

民主主義が「する」論理に支えられるものであっても、根強く残っている「である」論理により上手く機能しなくなる。

この傾向が進むと、政治家による政治の専有物化が進みます(例 「政治は政治家が行うもの」と国民が無関心になる)。

現在、コネ、金、派閥などで政治的ポストを保っている指導者が多いのが、何よりの答えでしょう。

これを防ぐためには、国民が政治家の権力乱用や業績を常に監視すること。

政治は国民の関心によって支えられるものなのです。

『日本の思想』の3つの見どころ

『日本の思想』の見どころは3つあります。

①Ⅰ・Ⅱは難しい、Ⅲ・Ⅳは読みやすい
②現代社会、個人にも当てはまる問題
③腰を据えて読むべし

順に詳しく説明していきましょう。

①Ⅰ・Ⅱは難しい、Ⅲ・Ⅳは読みやすい

『日本の思想』は岩波新書のおすすめ、傑作、名作としてたびたび耳にしていましたが、まさかこんなに難しいとは思いませんでした。

本書はⅠ、Ⅱが論文形式、Ⅲ、Ⅳが講演体の文章で書かれており、前半2つが特に難しかったです。

初めて読む場合は、Ⅲ⇒Ⅳ⇒Ⅰ⇒Ⅱの順番で読むことをオススメします。

②現代社会、個人にも当てはまる問題

イメージと現実のギャップ。

例えばTVやマスコミなどは長らくイメージを伝える役割を果たしてきましたが、現代はネットをはじめその役割を担う媒体が増えました。

それではイメージと現実のギャップは狭まったか、というとむしろ逆。

個々人がイメージを発信できるようになったことで、壁のバリエーションが増えただけのように感じます。

簡単に言うと、イメージ頼りでしか触れない情報が増えたということ、何が本当で何がウソか、何を信じればいいのか分かりにくくなったということ。

イメージや部分的な側面だけで対象を理解した気になってしまう危険性や、情報の取捨選択の難しさは相変わらず存在しているということです。

この問題はむしろ現代こそ腰を据えて考えた方がいい気がします。

 

「である」ことと、「する」こと。

学生時代のスポーツクラブで「休憩以外では水を飲むな!」と言われていた世代としては、理屈じゃなく「~すべき」、「~らしく」を強要される場面は、まだまだ世の中に残っていると感じます。

「である」論理と「する」論理の話は政治だけでなく、個人の物事の判断基準や考え方、仕事や人間関係にも広げて考えられます。

 

例えば「陰キャ」「陽キャ」とか、「オタク」「パリピ」とか、イメージで括ったり決めつけるのは身分的な考え方に近いですよね(実際にコミュニティ内ではカースト的な働きをします)。

安易に自分をどこかに振り分けることで閉じてしまう可能性は多いし、卑屈になったり高圧的になったりすることに、立場の持つイメージが与えている影響は大きいと思います。

これは一概にどちらがいいということではなく、「する」が必要な場面でされず、必要ない場面で「である」が強調されるような錯誤の危険性の話ですね。

「する論理」、「である論理」については、無意識レベルで刷り込まれてる自覚があるので、ともすれば自分の思考すら自分のものではないのかもしれません。

これが日本特有の問題なのかは、気になるところではあります。

③腰を据えて読むべし

本書は「Ⅰ、Ⅱが難しくてⅢ、Ⅳは読みやすい」と書きましたが、全体的に難しい内容です。

目次と小見出しをざっと見ても内容が見えてこない辺り、推して知るべし難書だったと言えます(少なくとも自分にとっては)。

そのため、疲れている時に読んでいると、内容がまったく頭に入ってきません。

なんとなく字だけを追っていて、ふと気づいてページを戻っての繰り返しになります。

本書を読む時は腰を据えて、集中できる場所に行くことをオススメします。

『日本の思想』の感想

60年以上前に書かれた本ですが、書かれている内容には古さを感じませんでした。

無限責任という無責任、イメージと現実のギャップ、である・する論理など。

指摘されている問題の多くが現代でもそのまま残っていることを考えると、お国柄として根付いた思想はそう簡単に変わらないものだと思わされます。

国や社会が変わってそれが個人にまで浸透してくるのを待つのでなく、主体的に考えて変化していくことが大切。

特に印象に残ったというか耳の痛かった話は、民主主義の特性を示すために自由人を例に挙げていた箇所です。

自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれてることになります。(丸山 1961: 156)

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