1冊の本を100回読むと見えてくるものとは?|『俺の文章修行』

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俺の文章修行』を読みました。

著者は町田康さん、発売は2025年、幻冬舎から。

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内容/あらすじとか

ゴミカスみたいなおのれを命懸けで書いてきた。
町田康の文体に宿るその精神と技巧。はじめての告白
「お互い、ええ文章書こうで!」

・千回読んだ『ちからたろう』がつくった文章の原型と世界観
・ゴミ捨て場から持ち去った『ことわざ故事金言小事典』の活躍
・筋道を見せる「プロレス」的文章と敵を倒すための「格闘技」的文章の違い
・文章のいけず――かさね、刻み、間引き、ばか丁寧、無人情/薄情、置換、時代錯誤、がちゃこ、国訛、半畳、ライブ、バラバラ――を使う
・「俺は」と書き始めるか? 「私は」と書き始めるか? その一瞬が次の内容を決める
・「書く姿勢」を取れるのは、いずれ此の世からいなくなる人間だけ
この世にある、書くことでしか伝わらない現実。生きるための文章読本。(Amazonより)

『俺の文章修行』の感想/レビュー

天才がなんとなくやっているように見えること、天才の頭のなかで起こっていることを、できる限り言葉で説明したような内容でした。それは思いの外に地道で面倒な自己省察の繰り返し。「天才」の一語で片付けられて、あまり言語化されてこなかった領域の話です。

同時に既存の価値観や感覚に乗っかって、無意識で駄文を量産している人が多いことに対する筆者の批判的な姿勢も見えました(耳が痛い)。卑俗な自分を直視できない自尊心、評価を欲する虚栄心などから、文章を飾り立ててふわっとした耳障りのいいことを主張する。そうさせるよう幼少期より形成されてきた道徳、倫理、社会の風潮、善悪、正誤のような観念を、筆者は「雑な感慨ホルダ」と呼んでいます。

巧言令色な文章に嫌悪感を示すあたり、やはり筆者はロック出身の人なんだなぁと思いました。雑な感慨ホルダそのものが悪いというよりは、それに乗っかって小手先で表現している怠惰と欺瞞(自分と他者にウソをつくこと)を叱咤しているのです。

それがどんなにゴミカスみたいなものでも、自分が真に感じて思ったことを書け。そこに至るまで自分を掘り下げろ。自分のなかに埋め込まれている「雑な感慨ホルダ」に気づけ。そういった主張はマインドフルネス的な考え方(自己の内面感覚に自覚的になること)に近い気がします。

後半からの文章は、筆者の筆がノッているのが伝わってきます。それは既存の文章教室で教わるルールや文章表現の常識とは正反対の文章。けど読みやすくて面白い、けど難しくてわかりにくい。丹念な推敲などせずに一発書きしたような、ライブのような生々しさがあります。同時に繰り返し自分の醜さ、卑怯さを指摘されてるようで、ただ面白いだけではない読書体験になりました。

で、既存の感慨ホルダを取っ払って、自分が感じたことや思ったことを文章化するにはどうすればいいのでしょうか。筆者は秘中の秘として本書の一番最初に「本をたくさん読め」と書いています。たくさんの本を読む、そして1冊の本を何度も読む。特に強調されているのは1冊の本を何度も読み込むことの重要性です。

『俺の文章修行』のハイライト/印象に残った箇所

文章力を身につけるには読書が有効

文章力を身につけるためには多くの本を読む以外に道はない。なぜなら文章は既存の言葉を組み合わせて綴っていくのであり、その組み合わせの巧拙により文章力が測られるのであるが、よい組み合わせを拵えるためには、多くの言葉を知っている必要があるからである(町田 2025:7)

それなら漫画、アニメ、映画、ドラマ、人とのコミュニケーションでも言葉の種類は増やせるのではないか。なぜ活字の本である必要があるのか。そんな疑問に対して筆者は、他の媒体では文章に活かす形で言葉を増やすことが難しいと述べています。

本をたくさん読め、そして同じ本を100回読め

四度読む。五度読む。そうすると、そこに別のものが見えてくる。というとオカルトめくがそうではない、それはその作者の文章の癖であり、作者の息遣いのようなものである(町田 2025:20)

同じ本を何度も繰り返し読むことで、その作者の「思考を文章化する装置」が、自分の中にも組み込まれると筆者はいいます。ただ数回読んだ程度では、その装置の性能は雑で使い物にならない。それが自分の装置として使えるようになるまでは、最低でも100回は読まなければいけないそうです。

それではどんな本を読めばいいかというと、「何でもいい」そうです。ただ自分の頭で理解が追いつくものよりは、一読で理解できない本、時代のふるいにかけられて残っているような本がよいのではと言っています。「一冊の本を何回も読む。知識情報を多く取り入れようと思う人にとってこれは魔道。しかし文章をきわめんとする者にとっては王道なのである」(町田 2025:21)。

人は考えたくないから、雑な感慨ホルダにぶちこむ

己の中には、直視したくないような醜怪なものやアホとしか思えないものも仰山あり、それと向き合うのは疲れるし、しんどいし、気分も悪いので、それらを防止するため、なにか心に錦が生じそうな事態に出会った際は、automaticに雑な感慨ホルダに入れて己に向き合わず、そのことについてなにも考えない、なにも感じないようにする、つまり己と向き合わないようにするのがデフォルトになっている(町田 2025:204)

いくら文章表現の技術があっても内容がぺらぺらになってしまうのは、発想の起点が雑な感慨ホルダから始まっているからという本末転倒の話。人は思考の領域でも、「とにかく楽したい」というのが基本設計のようです。

「そんなことはない。俺は精緻な人間である」
そらそうなんかも知らん。そやが人間の奥底には、三歳とかそんな時に見たもの、聴いたものの影響がずっと残っていて、それが雑な感慨ホルダになるので、成長してからいくら学んでもその感慨ホルダがなくなるということはなく、本来、考えなければならないことを感慨ホルダに入れて考えなくてすむ状態で考えているので、その緻密な考えの根底の判断が雑なのである(町田 2025:201-202)

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