四国遍路|漂泊とはたどりつかぬことである【感想/レビュー】

岩波新書
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四国八十八ヵ所。金剛杖を手に、千数百キロをひたすら歩く。土地の人から受ける「お接待」が心にしみる。ーー人はなぜ四国をめざすのだろうか。いま、ひとりのお遍路として四国路をたどる著者の胸に去来する問いだ。人びとと出あい、自然の厳しさに打たれつつ歩む巡礼行を、達意の文章で綴る連作エッセイ。

辰濃和男(2001)『四国遍路』カバー袖 岩波書店

四国遍路』を読みました。

著者は辰濃和男さん、発売は2001年、岩波書店から。

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四国遍路の内容/あらすじとか

筆者は1974年、44歳で四国遍路を経験しています。

それから年を追うごとに、再び四国路を踏みたいという気持ちが高まっていったそうです。

しかし、そう思いながらもなかなか踏み出せず、二度目の旅に出たのは24年後の1998年でした。

多くの人と出会い、別れ、自然に打たれ、見守られながら、自らの足で歩いた四国遍路の記録となっています。

海道を暮れて歩ける遍路ひとり 誓子

四国に誘われるとき、人はたぶんこんな風景を思い浮かべるだろう。この場合、遍路は独りでなければならぬ。
独り旅を通したい。
たそがれどき、海辺の道を歩く。残照が消えてゆく。淡墨色の風のなかを歩く。沖はぼうとかすんで、空と海の堺はもはやさだかではない、連れは一本の杖だけだ。(辰濃 2001:7)

四国遍路の感想/レビュー

筆者曰く、四国遍路をする人の多くは何らかの「」を抱えているそうです。

近親者を失った人、健康を失った人、職を失った人、自信を失った人、拠り所を失った人。

なかには罪人やはぐれ者もいて、遍路道にはそれらすべてを包み込む懐の深さがあるのです。

 

そういった背景のためか、道中で出会う人との話は総じてドラマチックになっています。

歩いて、出会って、別れて、また歩く。

歴史ある八十八ヵ所のお寺が遍路の「点」なら、道中で出会う自然と人々は「線」。

四国遍路は点を結ぶ線にこそ宝がある」と筆者は述べます。

 

丁寧に描写される美しい景色、自然の数々。

歩くことで深まっていく思索と気付き。

一期一会で交錯する人間ドラマ。

どう歩いても劇的になってしまう四国遍路が、こちらにも手招きしているように感じられました。

ハイライト/付箋/印象に残った箇所

人も自然もすべてが一期一会

出あうのは人だけではない。江戸時代に建てられたお遍路さんの墓との出会いがある。奥深い山の峰に漂う雲との出あいがある。黄金の穂をぬらす時雨との出あいがある。国道の果ての月との出あいがある(辰濃 2001:44)

自分の意思ではぐれる勇気

はぐれるとは「連れを見失う」「離ればなれになる」の意味だが、そこに自分の意思が加わると「群れから離れる」「群れを避けて独りになる」の意味になる。それは多くの場合、静かな勇気を必要とする行為だ(辰濃 2001:52)

少なくともこの遍路行は、はぐれる勇気を鍛える日々でありたい。みなで歩く安全な道よりも、はぐれて行く危険な道を選びたい。
暮らしの知恵は、はぐれる勇気をもち、放浪を続ける人びとから刺激を受けることで、異質なものとまじりあうことで、ゆたかさをます。新しい文化は、はぐれものからの刺激によって創られ、はぐれものによって伝搬されてきたのだ。「はぐれる」ことを否定的にのみとらえる文化は衰退する(辰濃 2001:54)

どんなに迷っても、一度きめてその道を選び、一度きめてその宿を選んだ以上は、その選択が「正解正解大正解」だったと思う。そう思いこむ。選択が間違っていたかどうかなどといつまでもぐじぐじ考えず、まずは正解だったと思う。それも一つの修行だろう(辰濃 2001:137)

独り歩きの私を励ます意味だろうか。別れぎわに章敬師がいった。「歩くには独りがいいですね。独りになると力がでます。独りで歩いていると、ものを判断する力やさまざまなことに感謝する気持ちがわいてくる。独りになることは大切なことです」(辰濃 2001:158-159)

「はぐれる」には道にはぐれるだけでなく、心の安全地帯からはぐれて成長を望むこと、右にならえの安心感からはぐれて自分の感性を大切にすることなど、捉え方はいくらでもあります。

四国遍路を独りで歩くことがそのまま「はぐれる」意識の修行になるのは、実際に独りになることですべてを自分で選択・決断しなければいけないからだと思います。

感覚を開く

自然の精髄はアタマを働かせてつかみとるのではなくて、体でつかみとるものなのだろう。むしろアタマの働きを極度に抑え、脳にこびりついた「さかしらごころ」の出番を抑制したとき、いままで聴こえなかったものが聴こえ、見えなかったものが見えてくる。(辰濃 2001:101-102)

まっさらになったこころで見なくては本当のところが見えてこないと自分にいい聞かせる。概念に縛られてものを見るときは真の驚きはない。概念的なものを否定し、海に融和し、山に融和して見る新しい空間には静かな驚きがある(辰濃 2001:162)

「さかしらごころ」とは利口ぶって出しゃばろうとする心のこと。

先入観、偏見、思い込みというフィルターを通して物事を見ていては、本質を見落としてしまいます。

そしてどれだけ意識してもフィルターをはがせないのが人間でしょう。

しかし、常々意識してまっさらな視点に近づこうとする努力は大切です。

その訓練として役に立つのが、実際に見聞き経験することだと思います。

遊び心を大切にする

わきめもふらずに歩いている人が多いけれども、私はいま、ワキメ専門で、ともいった。道ばたで犬に出あうと、長い間遊んだりして、なかなか前に進まない。
なにか願いごとでも、と聞いた。
「いや、遊びですよ」
「……」(辰濃 2001:167)

アメノウズメノミコトの昔より、遊び上手、踊り上手、歌い上手、囃し上手は世の中のがんじがらめ状況を打ち破ることで、大切な役割をはたしてきた。
現代のお遍路が巨大な癒やしの場であるならば、それは同時に、巨大な遊びの場であってもいい。四海への、こころの飛翔を可能にする遊びの場だ(辰濃 2001:168)

遊び心が何事においても大切だという意見には全面的に同意します。

物事を柔軟に考えたり、異なるアイディア同士を結びつけたりするなどの具体的なメリットも多いと思いますが、何より遊び心を持って物事に取り組めば単純に楽しいからです。

切羽詰まったり、真剣になるほど忘れてしまう、忘れてはいけないこと。

四国遍路は答えはくれない、考えるのは自分

へんろ道は、即席の人生指南を与えてはくれない。お手軽な答えを用意してはいない。へんろ道はしかし、一度しかない自分の人生を大切に思い、自分の力で答えを探し続け、難行にいどんでいる人に対しては、じょじょに門を開いてくれる。
答えは自分の力で創っていかなければならない。そのためには、自分の生き方に、真っ正面から相対することだ(辰濃 2001:188)

歩きながら、自分という人間の後ろ姿ーーおろかで、我が強く、どうしようもない人間であり続けてきた自分、あり続けている自分の姿があぶりだされてきた。その自分をこなごなに壊そうと努めてみる。(中略)壊しても壊しても壊しえない我があることは承知で、その壊しえない我と向き合うことが修行なのだろう。闇のなかで己の破壊に立ち向かう己の姿がひどくかっこう悪くもあり、こころもとなくもあった(辰濃 2001:188-189)

本当の生き方とはなにか。人よりもたくさんのモノをもつことだろうか。人よりも「よりよい」といわれる地位や肩書を得ることだろうか。豪壮な邸宅に住み、人にかしずかれ、きらびやかな装飾のなかで生きる人がほんものの人生を生きているのだろうか。死者のように生きているのに、そのことに気づかないだけではないのか(辰濃 2001:195)

自分の生き方にきちんと向き合っている人ほど傷は深く、その傷をかかえて迷いの道を歩いている(辰濃 2001:196)

閑(ひま)を大切にする

一日四十キロを歩く人がその日は十五キロほどにとどめてみる。寄り道をし、海辺で昼寝をし、遊びながら歩く。体内に眠っていた遊びごころをゆり動かす。「緩」を突き破る歩き方があれば、「急」を突き破る歩き方があってもいい。要は、自分のなかに凝り固まったものを突き破れるかどうか、ではないだろうか(辰濃 2001:77)

「忙しい、忙しい」が口ぐせになり、そういう生き方がまっとうな生き方ではないという自覚さえ失ってしまう。しかし生きている以上、たくさんの「充実した閑」があっていい。「閑適」の世界があっていいはずだ。閑適を創るには、あれやこれやの雑事を思い切って捨てる必要がある。あれこれのこだわりを捨ててしまう必要がある。(中略)さらに厄介なのは、せわしさを捨てる、いらいらを捨てる、高慢を捨てる、見栄っ張りを捨てるという類のことで、こころに根を張ったものを取り出して捨てることは、生きてきた歳月のかなりの部分を否定することになる。一筋縄ではないかない(辰濃 2001:201)

バイアス(先入観、偏見)しかり、どれだけ捨てようと思っても捨てられないのが「我」。

だからといって開き直ったり、欺瞞で表面を取り繕うよりも、自分にそういう面があることを知って、つど、気づけた時に戒めるしかない、というのが今のところの個人的な見解です。

定期的に内面に目を向けなければ、自分で自分を騙してしまい「自分はそんなに薄い人間ではない」「自分にそんな汚い部分はない」「あっても大多数よりはましな方だ」と傲慢にタカを括ってしまいます。

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